神様との約束

 

お正月が近づいたけど、おじいちゃんの家には神棚がないし仏壇もない。どうしてだと思う?―外国生活が長かったからーそうだね、しかし・・・・

 

 私は幼いころ一度死に損なっている。

 私が生まれたのは昔の樺太、今のロシヤ領サハリンで、父は製紙と炭鉱でにぎわう町の目抜き通りに店を構えていた。父がどちらかといえば小男なのに対し母はすらりとした長身で、並んで立つと父よりも頭一つくらい背が高かった。

 もともと北海道の叔父のもとで育てられた父は、15歳の時叔父が持ち込んだ縁談が嫌で叔父の家を飛び出し、単身開拓時代の樺太に渡って苦労の末に自分の店を持ち、その後幼なじみの母を嫁に迎えたのだという。

 私が物心ついた頃の母はまだ20代だったが、末っ子の私を膝に乗せ上3人の子供に囲まれて、幸せそうな姿でセピア色の写真に納まっている。

 

 ところで私が死に損なったのは、断片的な記憶と兄姉から聞いたことをつなぎ合わせると34歳の頃だったと思われる。

 その夏、私たちは一家をあげて祖母の住む北海道の田舎町を訪ねた。旅の途中の景色や連絡船の様子は覚えていない。ただ、祖母の家の前にある太いポプラの木が青々とした葉を風にそよがせていたのは、今も目に浮かぶ。そこは魚介類がおいしいので有名な町だが、私の記憶にあるのはとうきびと桃で、とにかくおいしかった。そしてある朝、私は体がだるかった。母はごろごろ寝転がっている私の額に手を当て、すぐに私を医者の所に運んだ。診察の結果は赤痢だった。私は数日を病院で過ごした後、さらに町はずれの淋しい林の中に建つ隔離病棟に移された。兄や姉とはもちろん面会禁止。ただ一人母が付き添い、病室で寝起きしていた。その夏その田舎町では赤痢が大流行し、大勢が隔離病棟に担ぎ込まれ、次々に亡くなると空きを待っていたようにまた新しい患者が担ぎ込まれたという。しかし私は、入院してからしばらくのことを覚えていない。

 

 ある日、病室の窓ガラスの向こうに父と兄姉の顔があった。その顔はガラス越しに中の私と母を何度も眺めたあと、窓から消えた。その日、父と兄姉は樺太の家に帰って行った。兄たちは学校が始まり、父は店をいつまでも閉じておくわけにいかなかったのである。

 そのころの私はかなり衰弱していたらしく、ベッドから降りた記憶はない。ただ高熱は徐々に治まっていたのか、断片的ながら幾つかのシーンは記憶している。ほかの患者の付き添いの人が母に対し、あの人は昨日亡くなった、治って退院した誰それさんはこんな薬を飲んでいた、などと言っていた。

 そして母は私に、医師が与える薬に加え種々の薬を飲ませるようになった。どこからどのようにして手に入れるのかは知らなかったが、今でいう漢方の類らしく概して苦かった。

 

 秋の深まりとともに隔離病舎に新たに来る患者はいなくなり、亡くなる人、退院する人が出るにつれ病舎は淋しくなった。隔離病舎の医師は間もなく町の病院に戻るらしい、それまでに退院できない患者は別の隔離病舎に移されるらしい、と噂されるようになった。母は、様々な薬を飲ませては私の便を調べていた。

 ある日、私はひどく喉が渇いて母に水をねだったが、飲ませてもらえなかった。あの苦い薬でもいいから飲ませてと頼んだ私の頭を、母は急に自分の胸に抱きしめ、マーちゃんもう少し我慢してねと涙声で言った。

 その日、医師の検査があり、どの薬が効いたのか分からないが私は退院を許された。マーちゃんよくまあ助かってと、祖母は私の頭をなでてくれた。

 秋が深まる北海道から、私は母と共に冬間近の樺太で待つ父のもとに帰った。

 

 その母は終戦後の混乱の中で、私が小学校1年の時に死んだ。33歳、肺結核だったと聞いている。しかし私はその時さほど悲しいとは思わず、泣いた記憶もない。そして数年後、私たちは北海道に引き揚げた。

 

 樺太を離れた後も、ソ連兵が進駐した後の混乱と苦しかった生活は覚えており、馬鹿な指導者が日本をあの戦争に導きソ連が不可侵条約を破って樺太千島を占領した結果なのだと教えられこともあって、「母のない子」の淋しさ口惜しさを感ずるたびに彼らを母の仇と憎む気持ちが積みあがった。

 

 高校生になった私は、ある夏、旅行の途中で樺太時代に母が親しくしていた夫妻を訪ねた。

 マーちゃんがこんなに大きくなってチヤちゃん(私の母)も喜んでいるわねえと、そのおばさんは言った。

 チヤちゃんは死ぬ間際まで貴方たちのことを心配していたのよ。だけど、薬のない時代にお父さんが必死に手に入れてきた薬を、チヤちゃんはどうしても飲まなかったの、とおばさんは続けた。

 マーちゃんが赤痢になってお医者さんに見放されたとき、チヤちゃんは神様に約束したんですって。マーちゃんを助けてくれたら私の命を差し上げますって。だからマーちゃんが助かったあとは、自分が病気になっても一切薬を飲まなかったの。結核と分かった時も、とうとう神様との約束を果たす時がきたのと言って、やはり薬は飲まなかったの。

 私は思わず、そんな馬鹿な、とつぶやいて立ち上がった。高校生になった私にとって、物理、化学、地学などで説明できない事象は単なる迷信だった。自分の母がそんな愚かしい考えに囚われていたなどとは、信じられなかった。混乱する頭を抱えて家を出た私は裏の畑に来ていた。母を死なせたのは、本当は私の存在そのものだったのだ。確実に近づいてくる死を前に、母は神様の人質となったことも知らずに遊んでいた私のために、一切の抵抗をあきらめたのだ。

 私の眼に映る大根の葉が涙でにじんだ。その日おばさんの家の畑で私は声もなく泣いた。高校時代に流したただ一度の涙だった。赤痢になった自分に対する怒りをどうすればよいのか分からなかった。そして母から一切の抵抗力を奪った神や信仰を憎んだ。

 

 もう分かっただろう、この「私」がおじいちゃんだ。おじいちゃんは神も仏も信じていないし、むしろ憎んでいるという方が当たっている。しかしお前たちにその感情を押し付けるつもりはない。そもそもおじいちゃんの心にあった怒りや憎しみは月日と共に薄れてきている。お前たちのママからお宮参りに誘われた時、おじいちゃんはそれに反対しなかった。そして神社では、神に対し「私は貴方を認めていない。しかし、もしも本当にいるのなら、この子に降りかかる全ての不幸はこの子にではなく私に与えよ」と心の中で言った。考えてみれば、眠っていたはずの怒りから出たその言葉の半分くらいは、神を認める気持ちのあらわれかもしれなかった。怒りや憎しみを持続させるにはそれらを再生産するためのエネルギーが必要だが、おじいちゃんには他にもっとエネルギーと時間を使いたい大切なことが沢山あった。今も神を信じていないが、もう憎んでもいない。神社仏閣を訪ねるのは嫌いじゃない。何かしら気持ちが新たになるから。受験を控えたお前たちにたびたび言った「力を尽くして狭き門より入れ」という言葉も、聖書の中の言葉だ。全ての教育、全ての宗教を頭から信じる気は、おじいちゃんにはない。なんでも読んでみて納得できるものは取り入れる、それでいいのだと思っている。

 

 お前たちに降りかかったであろう不幸を全て取り除いてきたかといえば、それは分からない、いや本当は、神を信じないおじいちゃんとしてはそんなことがあるはずはないと思っている。

 これからはお前たちが自分で自分の人生に立ち向かっていくのだから、もうおじいちゃんが神に文句を言う筋合いではないのだろう。