リスク・トレランス

リスク・トレランス

魔のトライアングルと言えば、多くの人が「ああ、バミューダ海域ですか」と言う。フロリダの北東千数百キロの大西洋上に浮かぶバミューダ諸島は航空機の行方不明など不気味な話で有名になったが、実際はコバルト・ブルーの海と温暖な気候に恵まれた地上の楽園という言葉が相応しい、美しい島々である。若いカップルが沈没船の宝探しをする「ディープ」という外国映画を見たことがある。その映画はこのバミューダで撮影されたと聞いている。またここはタックス・ヘイブンとしても有名で、多くの会社が税効果を狙った子会社を設立している。

私がこの島を訪れたのは今から三十数年前になる。当時ロンドンから投資運用をアドバイスしていた顧客企業(その代表者は私にとってゴルフの好敵手でもあった)がそこに本社を置いており、ニューヨーク出張のついでに立ち寄ったものだ。タックス・ヘイブンには本社所在地に郵便箱があるだけという会社も多いが、彼の会社は郵便ポストだけでなく机も椅子もある立派な事務所だった。初日に仕事の打ち合わせをすると、翌日は当然のようにゴルフとなった。二人で雑談しながらのんびりとクラブを振ったコースは楽しかったという記憶に霞んで、1ホールを除き殆ど覚えていない。その1ホールとは最終ホールのパー3、確か5番アイアンを手にしたから160ヤード位だったはず、という頼りない記憶だが、ある出来事のお陰で、そのホールの景色は今もはっきりと目に浮かぶ。

ティ・グラウンドは小さな台地の上にあり、そこから見下ろすフェアウェイは両側を木立でセパレートされていた。フェアウェイの先には丘陵があり、グリーンはその中腹に、そして丘陵の上にはリゾート・ホテルの建物があった。

 「いよいよ最終ホールですな」

 手首が緩んだのか妙に力んだのか、私の最終ティ・ショットは高く上がったもののスライスというもおろか、ソケットに近い形で右へ飛び木立の陰に消えた。

 「あれ、OBかな」

 「いや、ここにOBはないですよ」

テキは見事なスイングでグリーンに乗せていた。

 「それじゃ、グリーンでお会いしましょう」

ボールを捜して木立に入り、突き抜けてみるとコバルト・ブルーの大西洋が広がっていた。白い砂浜のあちこちに、水着姿のサンベイザー(日光浴客)がトドやオットセイのように寝そべっている。予想もしない光景に、一瞬、ぶつけたかとひやりとして立ち止まると、程よく日焼けした1頭のトドが手を挙げておいでおいでをした。近くに、私のものと覚しき白球がある。

「ソーリー」

軽く会釈をして近寄ったが、

「ん・・・」

よく見ると、白球は濡れた砂を握った太いティの上に載っている。

「これは貴方がやったのか」

「いや、偶々その上に載っかったのさ(just happened to be on it)」

そんな訳はない-思わずにやりとしたが、あるがままの状態でプレーするのがゴルフの精神。いずれにしろ、砂のティを崩すほど私の精神は頑固ではない。バンカー・ショットのはずがティ・ショットになった気持の余裕か、球は見事に梢を越えてグリーン方向に飛んでいった。

「グッド・ショット」

「サンキュー。本当に有難う」

「気にしなさんな。次も面倒見てやるよ(next time, I’ll take care of it again)」

私は遂に噴き出した。物言いは明らかに英国人。全く、ジョンブルというやつは・・・。しかし、私が感じたのはユーモアだけでなく、背後にある彼らのリスクに対する考え方、そしてある種のリスクに対するおおらかさだった。

 

スコットランドのセント・アンドリュースで思い出すことがある。オールド・コースでは、ゴーイング・アウトの多くのフェアウェイが戻ってくるカミングインのフェアウェイと並行しており、両コースにまたがるように設置された大きなグリーンをアウトとインが共用している。当然、危険だと言う声はある。フォアーという声に思わず目を上げたのは、私が18番のフェアウエィをプレイしていた時だった。ニアミスもいいところ、感覚的には2、3メートル後ろを、唸りを残して白球が飛んでいった。遠く1番ホールのティ・グラウンドで、ショットを左に引っ掛けたプレーヤーが手を挙げていた。私も手を挙げて応えた。

セント・アンドリュースのコース設定を「危険だ」として時々挙がる非難の声に、「偉大なセント・アンドリュース人」と称されるW.T.Linskillは泰然として、「私はそうは思わない。今シーズン私がボールを当てられたのはたったの3回しかない」と述べたという。危険のないスポーツなどあるか、その覚悟のない者はここに来るな、と言いたいのかもしれない。

 

日本に帰ってから、友人がメンバーとなっている首都圏の名門(と一般的に称されている)ゴルフ・コースでプレーした時、その友人から対照的な話を聞いた。そのクラブのあるメンバーの打ったボールが、前方グループにいたメンバーに当るという事故があったそうである。

「当てられた方は最近もプレーしているからたいしたことはなかったんだろうと思うけどね」

私に話してくれたメンバー氏によると、当てられた方は、「加害者」に対して1千万円程の賠償を要求し、二人の関係はこじれにこじれたという。

「最終的に、当てた方は1千万円近い金を払い、会員権を叩き売って退会してしまったよ」

何故にそうなるのか。少なくともゴルフ・コースで、狙って打ち込むプレーヤーがいるとは考えられない。治療費(が掛ったとしても)を保険でカバーし、「済みませんでした」でさらっと済ませられなかったのか。

一般論として、ボールを打ち込んだ後続組には非がある。しかし前の組にも守るべきルールとマナーがある。当てられたことを奇貨として多額の賠償を要求したという被害者の様子には、ジョンブルに感じたマナーやリスクに対する順守精神や、スポーツマンとしてのおおらかさが感じられなかった。

 

別の機会に、日本人紳士のおおらかさに感じ入ったこともある。  

知り合いと一緒に入ったある蕎麦屋で、他のテーブルを片付けた店員が、私の対面に座っていた知り合いの上で、運んでいたどんぶりを見事に取り落としたことがあった。慌てて上着を脱ぎハンカチで拭いた彼氏は、タオルを持って駆け戻り平身低頭する店員を、「悪気があった訳ではないからいいですよ」と慰めた。その後店主が馳せ参じて、せめてクリーニング代を払わせてくださいと申し出たが、彼はそれも断った。

 

 この人間社会、生きていればいろいろな出来事に出会う。Linskillにとって、1シーズン3、4回ボールに当るのは、ゴルフをする以上覚悟していたリスクなのだろう。クリーニング代を断った彼氏にとっては、店員のヘマに遭遇するのも日常生活におけるリスク・トレランス(許容度)の範囲内だったのであろう。もし私ならどうしただろうと思う。ドッグ・レッグのパー5で、ショート・カットを狙った後続組のティ・ショットを右腕に受けたことはあるが、ティ・グラウンドから見える曲がり角に同伴競技者を残していなかった当方にも落ち度があり、謝る後続組に「大丈夫」と告げて2日間腕の痛みを我慢した。しかし、「たったの3回しかない」と平然と言う度胸はない。クリーニング代についても、正直言って、そうですか、それではクリーニングが済んだら領収書を持ってきます、と答えた可能性は充分にある。どうも小物のような気がする。

 

ところでバミューダのトド氏は、本当に私のボールに当らなかったのだろうか。今となっては確認の術もないが、少なくともゴルフ・コースの隣でサンベイジングをし、砂でティを作った彼氏が、天からボールが降って来るリスクを全く考えなかったとは思えない。ロング・ホールの弾丸ティ・ショットならやばいが、ショート・ホールで飛んでくるバナナ・ショットなど何ほどのこと、と割り切っていたのかもしれない。私ならどうしただろう。誓って言う。おへそにボールが落ちて来たからと言って、プレーヤーに難癖をつけることは絶対にしない。しかし、念のためビーチ・パラソルを立て、頭だけはカバーしていたかも・・・と考える小利口な発想そのものが、トド氏より小物の証拠かもしれない。この人生、できるだけおおらかに生きたいと思うのだが・・・。

                                                                                             

 新型コロナウイルスの拡がりを前に、社会に存在するさまざまなリスクを考えることが多くなった。リスクに直面した人々の対応もさまざまだ。そこから見えてくるものもある。大変な時期だけど、観察する価値のある時代だと思う。